この世の真実(カラクリ)を知ったらあっさりと月収100万越えてしまった
とにかく傷つかないために虚勢を張り散らし、人の話もロクに聞かず、ひたすらに自分の世界にどっぷりと首までつかりきる。
「だれも自分のことなんてわかってくれない」と心を閉ざし、精神世界をただたださまようだけで1日が終わる。
どんよりくもった気持ちのまま、また同じような朝をむかえ昨日と同じように精神世界をただたださまよい、また昨日と同じように1日が終わる。
それでも、いっちょ前にご飯はたべるし、シャワーも浴びる。
そんな自分に、ときに嫌気がさす。
そうしてどんどん小さな世界に引きこもるけれど、一向に出口が見つからずやがて手も足も出なくなり、日々を消化するだけでただただ時間だけが過ぎてゆく。
あまりにもうまくいかない現実に何度も打ちのめされ、荒んだ心で生きていた過去が僕にはあります。
考えてみれば、それは自分の心に潜む闇を無理やりほじくり出し、被害者ぶっていた方がこの世を生きるのが楽だったからなのかもしれません。
過去を思いかえしてみると、僕の人生は曇り空で埋め尽くされていたと思っていたのに、実は晴れた日もたくさんありました。
10代の頃は時給50円アップすれば跳んで喜びましたし、バイト先の社長に「君の顔は2度と見たくない」と言われクビを切られたときは、またしばらく心が荒みました。
良いときもあれば、そうでないときもある。
もしかするとその連続が人生なのかもしれませんが、目のまえのできごとにただ反応して心の深くまで腐らせてしまうと、人はとんでもない方向へ進んでしまう場合があるので注意しておきたいところです。
特に僕の場合は親や教師や会社や上司に認められたい、褒められたい、とにかく周りに自分を承認されることが当時の人生の目的となっていて、人生の成功とは「人に認められる事」だと信じていたのかもしれません。
競争に勝つことや誰かと自分を比べて優越感にひたる、つまり承認欲求や自己啓示欲といった、浅はかな欲求を追いかけ続けていました。
それはまるで、ゴールのないマラソン。
追いかけても追いかけても、決して満たされることのない欲求。
しかし、その浅はかな欲のさきに僕が本来のぞんでいた人生の成功はありませんでした。
身近な大人や学校や社会からの「賞罰教育」をモロに受けたら、「承認欲求」というやっかいな欲がついてまわることになりました。
実は人生の成功とは、人の数だけ答えがあって当たり前です。
「人生の成功とは○○でなければならない」なんて、それはただのバイアスがかったウソです。
たとえば偏差値40の人向けに編集されたテレビでは、お金をたくさん持って高級インテリア収集やタワマンや高級車を買ったり、キャバクラやホストやクラブで豪遊するのが成功者だと毎晩のごとく垂れ流されています。
これは、運よく時代の波にのったポッと出の成金特集や、セレブ芸能人の自宅公開などが分かりやすい例ですね。
要は、ハイブランドで着飾ってラグジュアリーカーを買って家庭を持ち、巨大な家を買うためにお金をたくさん使いなさいという情報が、情報弱者むけに流されているわけです。
情報操作と偏向報道で、すみずみまで汚染されたメディア。
そのメディアが意図的に作りあげた幻想に憑りつかれ、宝くじを給料の半分以上をつぎ込む人もいます。
周りの経済的成功者に感化され、お金儲けのためにビジネスを無理に拡大しすぎて、お金儲けするつもりがお金で人生がガンジガラメになる人もいます。
見栄や欲にかられ、不相応のブランド物や高級車を買い、若いうちに借金まみれになる人もいます。
はたまた、貯金で人生が終わる人もいます。
現状に何の疑問も抱かず、何者にもなれず死んでいく人もいます。
情報に踊らされるというのは、実は極めておそろしいことなのかもしれません。
とくに現代の超情報社会では、
「真実とはいったいなんなのか?」
「いったい何を信じればいいのか?」、
これらがわからなくなっています。
何が正しい行いなのかさえも、わからなくなっているのです。
とはいえ、僕たちの人間心理は100年以上前からなんら変わっておらず、技術だけが猛スピードで進化しているだけの話なのです。
ではいったい真実とは何なのか?
いったい何を信じればいいのか?
実は、「真実とは自分が信じたこと」、それがこの世の真実なのです。
信じるべきものは「自分がどんなふうに生きていきたいか」、つまり信じるべきものは自分の夢や希望や可能性や理想の未来です。
今も昔もなんら変わっていませんが、信じる情報や信じるひとを間違えると、とんでもないところへ行きついてしまうのがこの世に仕組まれた罠なのかもしれません。
過去に芯まで荒んでしまった自分が、いかに世の中の情報に踊らされ、そしていかに搾取されてきたかに気付いたときはさすがにショックでしたが、同時に脳みそがスパークしたのを覚えています。
世の中には、知らないほうが幸せなことがたくさんあります。
しかし知らないままでいると損することばかり、それが人の世です。
僕の場合は1度きりの人生を、どこかの誰かに搾取されるのが本気で嫌でした。
自分の心に他者がズカズカと土足で入ってくるのが、死ぬほどいやで仕方がありませんでした。
そこで自分にとって理想の未来をとことん追求したり、自分らしく生きられる世界を求めて求めて求めた結果、世の中のカラクリが明らかになりました。
真実を知ってしまうことで、気持ちが冷めたりふさぎ込んでしまうことなんて、誰だってあります。
でも下を向いてふさぎ込んでばかりいたら、どこかの誰かがポンと投げてくれたチャンスさえも見逃してしまいそうです。
たとえば車ならヘッドライトを照らしつづければ、漆黒の暗闇だとしても、どこへだってたどり着くことができます。
あたりはすっかり夜だとしても運転席に乗りこみ、エンジンをかけ、スイッチをクルッと回せば一瞬でライトがつきます。
重要なのは、ヘッドライトがわずか10メートル先さえ照らし続けてくれれば、どれほど闇が深くとも北海道から沖縄、あるいは世界中どこへだってたどり着けることです。
それは僕たち人間も同じです。
僕たちひとりひとりが光るからこそ、曇りが晴れて前が見えるし、強くまえへ進むことができるんです。
もし今、光る元気がないのなら、休養が必要な時期なのかもしれません。
そんなときは、自分をとりもどすためにちょっぴり休めばいいんです。
休むことに罪悪感なんて不要です。
真剣に休めばやがてまた光りたくなる時、歩き出したくなるときがきっとやってきます。
自分にまだ眠っている秘められた可能性、その可能性を開花させるまでは、夢や希望や可能性を捨てるなんてもったいないです。
僕たちにまだ眠っている可能性の芽は、自分があきらめない限りは静かに生き続けているのです。
いずれにしてもこの世に、真実など存在しません。
あなたが信じたことが、この世の真実です。
何を信じればいいのか分からなくなったなら、もう1度だけ自分を信じてみればいいんです。
もし誰かを信じてみたくなったなら、一時的な憧れや損得をぬきにして、その人の話にあなたが心から共感できるかで判断されるといいと思います。
何にも縛られず自由に生きたいなら、それが真実。
自由をあきらめたいなら、それも真実。
すべては僕たちの考えかた次第、
ここまで読み進められるあなたならきっとできるはずです。
実は生きることは、非常にシンプルです。
物事を難しくするのは、いつも自分でした。
いずれにしても僕たちはなにも知らない幼少期から、「就職して24時間365日死ぬまで働け」と、親や学校や社会から徹底的に教育されます。
だからこそ目に見えない部分、つまりこの世のカラクリを学んで、独自に攻略するしか方法がありません。
ただ、1度この世の仕組みがわかってしまえば、あとは生きることもお金儲けもそう難しくないことがわかるはずです。
過去は変えられないですし、未来なんてわかりません。
だとすればもう、「今」を生きるしかないのかもしれません。
先が見えず不安でどうしようもなくなるときがあっても、それが当たり前です。
不安を感じられるということは、まだまだ人間らしさ(自分らしさ)が残っている証です。
自分らしさを捨ててマニュアル通りの人生を歩み、機械的な言葉を吐きながら死んでるのか生きてるのか分からない顔で人生のすべてを消化するなんて、退屈だと思いませんか?
未来を信じ、自分を信じ、目のまえの現実を少しづつ塗りかえればいいんです。
自分を周りの誰とも比べず、自分が決めた道を自分のペースで歩き続ければそれでいいんです。
1歩1歩あるきつづけたなら、きっとたどり着けるはずです。
外では明るく振る舞っているひとにも、心の奥底では小さな闇をかかえているものです。
文句や陰口を言われて傷つかないひとなんて、この世にいません。
いくら強そうに見えても、人はみんな繊細な心を持っているものです。
しかし心の奥底にある闇を自分でほじくり返し、闇で心まで支配されないためには、今を一生懸命に生きることが大切なのかもしれません。
闇を忘れてしまうほどに、毎日をワクワクしながら生きることです。
悩みや苦しみなんて、これまでにたくさん受け取ったはずです。
もうそろそろ、悩みや苦しみを手放してみてもいいのではないでしょうか?
そうすれば両手があきますから、新しい未来を両手に持って、また歩きだすことができます。
ひとりで下を向いて悩まず、腐らずあせらずだれも憎まず、この先の人生では自由とハッピーだけを受けとると決めたなら、それでもう人生成功したようなものです。
自分の思うとおりに自由にデザインできる人生を目指すというのは、とてもステキな生き方だと思います。
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